昭和40年03月21日 朝の御理解
信心をさして頂く喜び、心の(?)それが安心にまで高められていく。信心をさして頂くということはそういう心の状態がいよいよ高められていくのが信心の目的であり、その目的に向かって自分の心が進展していない、たかめられていないとするとちょっとそれ、信心は何が目的か。どのような場合でも、心の安らぎが安心というところまで高められて、信心さして頂くための喜びが、いよいよ深こうなっつていく、お互いの信心はどうであろうか、お参りをすれば、それだけの事はある。
それはご利益信心に繋がる、そういう思い方そう言う信心では何時まで経っても信心の目指して向かって進むことは出来ん。信心の、しっかりと信心の帯をせよ。信心の帯がしっかり出来ているだろうか。着物を着て羽織をはおっておる、けれどもこの人小さい細ひもひとつで信心の帯ではなくて緋も程度、チヨット見るといかにも羽織、着物きてあるが、だらしのない姿でありますと、だらしのない信心になってしまう。
信心のご利益というのがおかげというのが決してでもなければでもない。けいども、そのご利益をいただいたというて、心の中に安らぎが、信心の喜びがいただけるものではないということ。信心が本当のところいただける時に自分の心のなかに喜びが頂ける、安らぎがいただけるのであり、それが高ぶっては安心となっていくという。信心の帯を締める、それが頂けてくる。
和賀心を持ってお願いをすると、実意をもってお願いをすると。「実意をもって願え」とおっしゃる。五穀豊穣、牛馬にいたるまで人事百般なんなりとも実意を持って実意を持って願うというのでなければならない。それを私共はほとんどいくらおかげをいただきましても、信心の究極のところである安心、信心の喜びというものは高められてはいかない。そこで信心の帯とはどのような帯か。
まあおかげの抜け落ちた信心ということになる。信心とは神様を信じて疑わない心、いよいよ真心の心が信心されて本物になってゆく、いよいよ自分の心が親切な心神心になってゆく、そいう信心の帯がしめあげられる時、必ずいただけるのが信心さして頂く者の喜びであり、信心さして頂く者にだけ許されるところの心の安らぎであり、どのような場合でも安心のおかげになってくる。
真の信心真の信心というけれども、その真の信心と云うのが、私は三代金光様の言葉でお知らせをいただきましたように、「真の信心とは安心のおかげをいただく事であります」と仰った。金光様の信心をしているから。真の信心をしているかといえばそうではない。真の信心とは心の中に確かに安らぎが頂けれる、安心がいただけれる、喜びが頂けれる、そういう喜びとか従にそうして信心がいただけれる心に家に、イエにです、備わってゆく、そこに信心さしていただく者の願いというものが。
そういう信心を身にうけていくことが・・信心の帯ができたということに云えると私は思う。信心の帯をせよと、しっかと信心の帯をせよ。と言うて信心しておれば食べる事も、例えていうならば、便所に行きたい時に便所にいくことを辛抱しておかなければならん。お腹がすいてたまらん、それを食べるものを食べてはならんとそういうものではない。そこのところを調和と言うか食べる事。食べさせてもらって、それが血となり肉となって、それが大小便となってでていく。
それを繰り返す、その繰り返すことに符帳が合う、整はない出そうと思っても出されない。そこに信心の狂いを悟らしてもろうて、有難く頂き、有難く出して頂いているところの、それがしかも血、肉となっていきよる。その事に対する願い、これは我情我欲ではないでしょうが。便所に行きたいということ、それは我情とはいいません、我欲とは云いません。お腹がすいた時に食べたいと思うことは。
当たり前の事、その当たり前の事がなされない。当たり前の事が「食べるに食なし着るに身なし」と言った様な不都合な事になって来る。そこで食べる事の為にを、あげ気持ちを促して頂く為にをあげどんな事があってもでらない。必要な時に必要な物が与えられない。そこんところのおかげを頂いて行く。そこんところの調和というのが乱れてくる。そこんところを私は願うてゆく、縋ってゆく実意をもって縋ってゆく。
そこんところが五穀豊穣、牛馬のことに至るまで、人事百般なんなりとも願って行く。それは、だから決して下作のものでもなからなけば、でもない。自分の人間無力というか、分かれば分かるほど、ここんところがいいよいよ縋っていかなければならない。お取次を頂いて、いよいよ縋っていかなければならない。御取次を頂いて願うていかなければならない。ここんところおかげが本当に、その時分の信心の調子というものを整えていかなければならない。
それは体の調子を整えて行く様なもの。お前もしてわしもし・・・?必ず出さなければならない。お便所に行くということ、ああ気持ようならせて頂く。それが順調に繰り返されない処に、人間の生きる悩みというか、苦しみというか、生きる難しさというものを皆が思うのである。ところがそれは、ひとつも難しい事ではないである。それは私共が先ず真の信心を目指さして頂かなければならない。
自分の心の平常を保つ事の為の信心、信心の心得のなかに暑かろうが寒かろうが暑いにつけ寒いにつけお礼が申し上げれる和らぎ賀ぶ心を願っていかなければならない。そこに心が整うところに与えられるものが、出さしていただけるものが ね順調になってき、血に肉にいよいよなって太ることができる。いよいよ喜びが肥えてくる。いよいよ安心が本当のものになってくる。どげんな場合でも心の乱す事のない心の安らぎ、それは真の信心をさしいただかなければその安心は頂けない。
お互い目ざすところを真の信心に置かなければならない。真の信心をさしてもらはなければ、暑い寒いのこと人間の悩み・・・・縋られないということはない。それは当然実を云ったら縋らなければおれない。・・・・・・自分の心の調子が整えられていくところに縋っていることが、願っている事がだんだん成就してゆく。いよいよ信心の喜びがその願いの成就によって、いよいよありがたいことになってゆく。
真の信心をめざさぬして、ただ御利益の方だけが進んでいっておるだったら、安心もよろこびとも、その時だけの喜びはいただけても、それがいよいよ安心のおかげに育ってゆく事にはならない。信心の帯をしろと仰る。信心の帯とは御利益だけに終始した、それで朝参りができているといってもそれは信心の帯ではないということ。信心の帯をシッカリさしてもらっつて、ここにはいよいよ信心の稽古に通ってくるということになってくると、いよいよ喜びと安心の受けものが出来る。
それに尽きる事のない限りないおかげが約束されるというものでなければ、私は本当の信心真の信心というのでは無いじゃあないかとこう思う。お互いの信心をよく検討してみて、果たして、真の信心をわからしていただくその意欲がどの程度に強く、また沢山あるかを思うてみると、真の信心ということが非常に影が薄い。
強いのは我情の方であり我欲の方であり、ご利益の方に非常に強い思いが走っておるということでは、私いつまでたっても、真の信心の、いわゆる真の信心の、真味という、真の味というものには触れる事は出来ないと思う。どうぞ、信心の帯を、と一緒に、どうぞ信心の、真の信心の帯をその、しっかり締め上げさせて頂いてからの信心にならなければならん。(?)
(終わり)